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「ミズキと海」
ミズキ・フォトの一つのテーマである《海》は、ミズキが日本の太平洋沿岸の、小さな町で生まれ育ったことが始まりでした。
毎日、目にしていた《海》という大自然との出会いを通して、ミズキはアーティストとしての資質でもある五感(視覚・聴覚・嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚(しょっかく))的な感性を、ひとつひとつ身につけてゆくことになります。
ひときわ優れた、スポーツ選手だけが獲得することができる、1/5000秒の動体視力(どうたいしりょく)を、ミズキは日々眼にしていた《海の波》の変化を通して、無意識のうちに体得していったようです。
はるか海と空との境界線を眺めたり、夜空の星々と時間を忘れて遅くまでお話ししたり、特に大波が幾重(いくえ)にもよじれながら駆(か)け上り、またたく間に、無数の飛沫となって落ちてゆくさま様にひかれていました。
その時はまだ、はっきりとした自覚はありませんでしたが、その「波のひと粒ひと粒の表情が視える!」ことが、ミズキにとってはあたり前のようになっていました。
葛飾北斎が「波裏の富士」(富嶽三十六景・神奈川沖波裏)で表現した、波しぶきのように……。
いまだアートの表現手段を持っていなかったミズキという種子が、発芽し‐成長して開花するには、<人生>という土壌(どじょう)が発酵(はっこう)する為の時間がさらに必要でした。
「自己表現」
最初のミズキのアート的な自己‐表現は、10代の後半に訪れました。
ダンスとの出会いによって、ミズキはその音楽に反応しながら、身体全体で自分自身をアート表現する喜びを体験しました。
その頃ミズキが住んでいた街は、得に外国人が多く、話す言葉が異なっていても、人生の喜びや哀しみ、人生上の問題など、言語を越えてお互いが理解し合えることを学びました。
ハートフルな、ボディー・ランゲージによるコミュニケーションを体得しました。
「カメラとの出会い」
初めからミズキは、写真家になろうとしていた訳ではありませんでした。
写真の専門学校に行って、その技術やセンスを学んだこともありませんし、特別の師匠(マスター)がいたわけでもありません。
友人に借りたカメラを持ち、機械操作も良くわからず山や海や人を、遊び感覚で撮っていたのが、カメラとの出会いでした。
……実はミズキがその前に、カメラ体験したのはまだ4歳のときでした。
父親はすでに他界してしまいましたが、その父親の唯一の趣味が音楽とカメラでした。
家族の写真撮りを始め、短い期間でしたが、多忙な父親がミズキとの唯一の時間が、カメラを持って色々な場所に撮影に連れて行くことでした。
優しくて、のんびり屋の父親がカメラを持つと、人が変わったかのように機敏(きびん)になり、モノの奥のおくまで見透かすかのようなシャープな視線になる——そんな一挙手(いっきょしゅ)・一投足(いっとうそく)をかたわらで、じっと幼いミズキは視ていました!たえず変化してゆく生命世界の、モノ的な風景や姿ではなく、その奥の<イノチ>や心の働きの姿を撮り、進化し続けてきたミズキにとって、むしろ、父親こそが最高の先生(マスター)だったのかもしれません。
「ミズキアートの特徴は?」
カメラマンによって作られた無機質的な色と形を撮るのでは無く、作家がイメージした風景や人物像をシャッターで切り取るのでもなく———アーティストの心の奥の眼で、被写体をあるがままに、視えたままにイノチの働きをミズキは撮ろうとしています。
例えば、ミズキは、レンズを通して眼球が焼けてしまうかもしれないのに、陽光に溶け込んでる光の表情の変化を、太陽をレンズ越しに直視して撮る!……ことで、その太陽フォトは、いつ見てもまぶしく、いまなお温かく、まぶしく輝いている。
原生林の冷たい川の中にミズキが立ち、その清冽な流れと一緒になって、シャッターを切る!……渓流の冷たさや、せせらぎが聞こえてくる。
「ミズキ・フォトの本質は?」
写真アートの99%が、機械にゆだねなければ作品ができ上がらない世界にあって〜0.0001秒の瞬間に、その仕上がりまでアートする、集中力を日常的に培(つちか)うことは大変なことです。
一瞬のうちに写真を撮ることは、他の表現と異なって一瞬で数百倍の集中力を使っていることを、、、当初のミズキには理解できず、何度か肉体的、精神的にバランスを崩しかかったようです。
仕事上カメラマンとしてのストレスも重なり、数年間カメラを辞めて機材すべてを処分してしまいます……。
その後あることがきっかけで、カメラの世界に復帰することに成りますが。。。そして、ほかの分野のアーティストからのアドバイスで「カメラ無しで撮ってみたら!?」というテーマを貰いました。
その時代に撮影した写真が、ミズキフォトの代表的な作品となる暗闇で撮り続けた「夜の木々達」のシリーズです。
「東日本大災害〜以後」
大津波災害で、海沿いの東北の自然も町も壊滅状態に成ってしまいましたが、その瓦礫の中から、まっ先に復活・復興しようとしたのが、小さな植物や動物たちでした。
大震災を体験したミズキは、他のカメラマンのように、廃墟化した町や原発の事故で畏怖(いふ)する悲痛な風景には、シャッターを向けられませんでした。
むしろミズキは、破壊し尽くされた地にあっても、小さなイノチたちがいたる処で、美しく可憐に、再生・開花してゆこうとしている!まるで何事も無かったかのように、ささやかに生き継ごうとしている生命の姿に、シャッターを押し続けました。
恐怖と悲惨体験して様々なこころのストレスにさらされてきた私たちは、ミズキの小さなイノチ達の写真の方に、むしろ勇気づけられ、励まされてきました。
「悲嘆にくれるだけでなく……美しいものに感動して、楽しんで良いんだ!」そんな誰も教えてくれなかった、小さな心の財産に気づかせてもらいました。
10年以上前から生命のイノチの働きをテーマに、写真を撮り続けて来たミズキは、震災後さらに飛躍・進化した様にみえます。
<ミズキ写真の影響>
過去の偉大なアーティストたちが、とくにゴッホやゴーギャンやシャガール…等が、生命の本質的な働きや色彩と対峙(たいじ)して、アートを革新してきたように、いま現在の私たちの社会‐生活や様々な文化的分野で、機械コンピューター化が進み、サイボーグ的・無機質的な生き方や表現が、主流と成ってきてしまっている私たちの時代の、自己表現・自己実現のテーマは何でしょうか。
決して大げさではなく、現代アートも見失ってしまった<人間性・自然性>の変革と、より人間らしく生存していこうとする道が、<ミズキ・フォト>にあるのではないかと感じています。
いまではミズキの写真は、精神的に不安定な子供やストレス状態の私たちに、調和的な心や安心・活力を得るための、きっかけを提供してくれています。
「写真の一瞬と、見る側の一期一会を大事にしたい」とのことで、社会やマスコミに自分を露出したがらないミズキは…今もそれは変わりませんが、むしろ感動を頂いた私たちが、ミズキの写真を世界に広げていきたいという気持ちになりました。
2013年 ミズキフォト・プロジェクト
ミズキ・フォトの一つのテーマである《海》は、ミズキが日本の太平洋沿岸の、小さな町で生まれ育ったことが始まりでした。
毎日、目にしていた《海》という大自然との出会いを通して、ミズキはアーティストとしての資質でもある五感(視覚・聴覚・嗅覚(きゅうかく)・味覚・触覚(しょっかく))的な感性を、ひとつひとつ身につけてゆくことになります。
ひときわ優れた、スポーツ選手だけが獲得することができる、1/5000秒の動体視力(どうたいしりょく)を、ミズキは日々眼にしていた《海の波》の変化を通して、無意識のうちに体得していったようです。
はるか海と空との境界線を眺めたり、夜空の星々と時間を忘れて遅くまでお話ししたり、特に大波が幾重(いくえ)にもよじれながら駆(か)け上り、またたく間に、無数の飛沫となって落ちてゆくさま様にひかれていました。
その時はまだ、はっきりとした自覚はありませんでしたが、その「波のひと粒ひと粒の表情が視える!」ことが、ミズキにとってはあたり前のようになっていました。
葛飾北斎が「波裏の富士」(富嶽三十六景・神奈川沖波裏)で表現した、波しぶきのように……。
いまだアートの表現手段を持っていなかったミズキという種子が、発芽し‐成長して開花するには、<人生>という土壌(どじょう)が発酵(はっこう)する為の時間がさらに必要でした。
「自己表現」
最初のミズキのアート的な自己‐表現は、10代の後半に訪れました。
ダンスとの出会いによって、ミズキはその音楽に反応しながら、身体全体で自分自身をアート表現する喜びを体験しました。
その頃ミズキが住んでいた街は、得に外国人が多く、話す言葉が異なっていても、人生の喜びや哀しみ、人生上の問題など、言語を越えてお互いが理解し合えることを学びました。
ハートフルな、ボディー・ランゲージによるコミュニケーションを体得しました。
「カメラとの出会い」
初めからミズキは、写真家になろうとしていた訳ではありませんでした。
写真の専門学校に行って、その技術やセンスを学んだこともありませんし、特別の師匠(マスター)がいたわけでもありません。
友人に借りたカメラを持ち、機械操作も良くわからず山や海や人を、遊び感覚で撮っていたのが、カメラとの出会いでした。
……実はミズキがその前に、カメラ体験したのはまだ4歳のときでした。
父親はすでに他界してしまいましたが、その父親の唯一の趣味が音楽とカメラでした。
家族の写真撮りを始め、短い期間でしたが、多忙な父親がミズキとの唯一の時間が、カメラを持って色々な場所に撮影に連れて行くことでした。
優しくて、のんびり屋の父親がカメラを持つと、人が変わったかのように機敏(きびん)になり、モノの奥のおくまで見透かすかのようなシャープな視線になる——そんな一挙手(いっきょしゅ)・一投足(いっとうそく)をかたわらで、じっと幼いミズキは視ていました!たえず変化してゆく生命世界の、モノ的な風景や姿ではなく、その奥の<イノチ>や心の働きの姿を撮り、進化し続けてきたミズキにとって、むしろ、父親こそが最高の先生(マスター)だったのかもしれません。
「ミズキアートの特徴は?」
カメラマンによって作られた無機質的な色と形を撮るのでは無く、作家がイメージした風景や人物像をシャッターで切り取るのでもなく———アーティストの心の奥の眼で、被写体をあるがままに、視えたままにイノチの働きをミズキは撮ろうとしています。
例えば、ミズキは、レンズを通して眼球が焼けてしまうかもしれないのに、陽光に溶け込んでる光の表情の変化を、太陽をレンズ越しに直視して撮る!……ことで、その太陽フォトは、いつ見てもまぶしく、いまなお温かく、まぶしく輝いている。
原生林の冷たい川の中にミズキが立ち、その清冽な流れと一緒になって、シャッターを切る!……渓流の冷たさや、せせらぎが聞こえてくる。
「ミズキ・フォトの本質は?」
写真アートの99%が、機械にゆだねなければ作品ができ上がらない世界にあって〜0.0001秒の瞬間に、その仕上がりまでアートする、集中力を日常的に培(つちか)うことは大変なことです。
一瞬のうちに写真を撮ることは、他の表現と異なって一瞬で数百倍の集中力を使っていることを、、、当初のミズキには理解できず、何度か肉体的、精神的にバランスを崩しかかったようです。
仕事上カメラマンとしてのストレスも重なり、数年間カメラを辞めて機材すべてを処分してしまいます……。
その後あることがきっかけで、カメラの世界に復帰することに成りますが。。。そして、ほかの分野のアーティストからのアドバイスで「カメラ無しで撮ってみたら!?」というテーマを貰いました。
その時代に撮影した写真が、ミズキフォトの代表的な作品となる暗闇で撮り続けた「夜の木々達」のシリーズです。
「東日本大災害〜以後」
大津波災害で、海沿いの東北の自然も町も壊滅状態に成ってしまいましたが、その瓦礫の中から、まっ先に復活・復興しようとしたのが、小さな植物や動物たちでした。
大震災を体験したミズキは、他のカメラマンのように、廃墟化した町や原発の事故で畏怖(いふ)する悲痛な風景には、シャッターを向けられませんでした。
むしろミズキは、破壊し尽くされた地にあっても、小さなイノチたちがいたる処で、美しく可憐に、再生・開花してゆこうとしている!まるで何事も無かったかのように、ささやかに生き継ごうとしている生命の姿に、シャッターを押し続けました。
恐怖と悲惨体験して様々なこころのストレスにさらされてきた私たちは、ミズキの小さなイノチ達の写真の方に、むしろ勇気づけられ、励まされてきました。
「悲嘆にくれるだけでなく……美しいものに感動して、楽しんで良いんだ!」そんな誰も教えてくれなかった、小さな心の財産に気づかせてもらいました。
10年以上前から生命のイノチの働きをテーマに、写真を撮り続けて来たミズキは、震災後さらに飛躍・進化した様にみえます。
<ミズキ写真の影響>
過去の偉大なアーティストたちが、とくにゴッホやゴーギャンやシャガール…等が、生命の本質的な働きや色彩と対峙(たいじ)して、アートを革新してきたように、いま現在の私たちの社会‐生活や様々な文化的分野で、機械コンピューター化が進み、サイボーグ的・無機質的な生き方や表現が、主流と成ってきてしまっている私たちの時代の、自己表現・自己実現のテーマは何でしょうか。
決して大げさではなく、現代アートも見失ってしまった<人間性・自然性>の変革と、より人間らしく生存していこうとする道が、<ミズキ・フォト>にあるのではないかと感じています。
いまではミズキの写真は、精神的に不安定な子供やストレス状態の私たちに、調和的な心や安心・活力を得るための、きっかけを提供してくれています。
「写真の一瞬と、見る側の一期一会を大事にしたい」とのことで、社会やマスコミに自分を露出したがらないミズキは…今もそれは変わりませんが、むしろ感動を頂いた私たちが、ミズキの写真を世界に広げていきたいという気持ちになりました。
2013年 ミズキフォト・プロジェクト